観音崎火口は、直径が70mほどのまるくくぼんだ地形で、湾になっています。湾の入り口に、黒曜石と千人堂があります。湾をはさんで正面に見える二つの岩山は、方言で、稲や麦の藁を積み上げた「斗尺」の形に似ていることから、「斗尺岩」と呼ばれています。
観音崎火口の地形の形成には二つの説があります。
①水の多い環境に溶岩が出てきたことで、溶岩の下に閉じ込められた水が気化し、上の溶岩を吹き飛ばしたマグマ水蒸気爆発の痕跡という説
②もともと火砕丘があり、後から出てきた溶岩が火砕丘の周囲を囲んで固まったのちに、柔らかい火砕岩部分が削れてくぼみになったという説
1970年代には、湾の地形を使って、「タタキ」と呼ばれる追い込み漁が行われていました。「タタキ」は、沖の方から海面を棒で叩きながら湾の内部に魚を追い込み、湾の入り口を仕切るように網を張った後に、湾内の魚を内側から網に追い込んで獲る漁法です。
猛禽類のミサゴ(英語名はオスプレイ)が、春に斗尺岩に木の枝を組んだ巣を作り子育てしています。トビくらいの大きさで、雄雌ほぼ同じ色彩です。背中は黒褐色、腹部と翼の下面は白く、目から首にかけて太い黒褐色の線があり、後頭部には小さな冠羽があります。海上でホバリングして魚を狙い、捕らえる様子がしばしば見られます。
観音崎には、高さ40m、長さ120mに及ぶ断崖に黒曜石が露出しています。地質学的、考古学的に重要な場所であることから、平成19年に「姫島の黒曜石産地」として、国の天然記念物に指定されました。
黒曜石は、千人堂の下と対岸の斗尺岩の一部に分布しており、今後も大切に守っていかなければならない貴重な存在です。
黒曜石の採取は固く禁止されています。
黒曜石は、溶岩が冷えて固まる際に、結晶ができずにガラスのようになった石です。黒曜石ができるには、原子が移動しにくい粘り気の強いマグマであることや、速く冷えることなど、結晶ができる前に固まってしまう条件が必要です。
一般的な黒曜石は、黒いものが多いですが、観音崎でみられる黒曜石は、色が薄いことが特徴です。
黒曜石をよく見ると、ガーネットが入っています。
観音崎の黒曜石は、先史時代に石器の原材料として使用されており、丸木舟で海を渡って交易が行われていたと考えられています。
流通範囲は、後期旧石器時代には姫島と近い海岸付近の地域に限られていましたが、縄文時代になるとその分布が広がります。縄文時代草創期から早期には東九州から南九州を中心に分布し、鹿児島県の種子島からも出土しています。縄文時代前期には、早期にみられなかった北部九州の遺跡から出土するようになり、後期から晩期には北部九州や中国地方を中心に、四国東部や近畿地方の遺跡まで広がります。
黒曜石の断崖の北側には、大きな海食洞があり、ジオクルーズで海から眺めることができます。
この海食洞内では、クロサギが繁殖していると考えられています。
観音崎の先端に馬頭観音を祀った小さなお堂があります。
大晦日の夜、債鬼に追われた善人を、千人かくまうことができる、といわれていることから、この名前があります。
観音崎の先端に馬頭観音を祀った小さなお堂があります。
大晦日の夜、債鬼に追われた善人を、千人かくまうことができる、といわれていることから、この名前があります。
崖の地層の中に見られる瓦を差し込んだような模様は、古くから「瓦岩」と呼ばれていました。火山活動等に伴う地震の揺れで、上下の地層に挟まれた部分が変形してできたと考えられる大分県では珍しい地層で、昭和34年に県の天然記念物に指定されています。
「コンボリュートラミナ」とは、地震の揺れによる地層の流動化により生じる構造です。
比較的新しい時代に溜まった地層で、柔らかく、崩れやすいため、台風などの風雨によって崩落を繰り返しています。昔は、崖の前面は砂浜で、崖の下には防空壕が、崖の上には大きな松がありましたが、崩れてしまいました。
過去の崩落と保全整備についてはこちら
「大海のコンボリュートラミナ」の地層は、約60万年前の火山灰でできていることがわかっています。この時代は、地球規模の海水準変動の影響を受け、淡水環境と海水環境が繰り返していました。
コンボリュートラミナの地層はこのうち淡水環境の時期にたまったもので、このあたりには湖が広がっていたと考えられています。
大海のコンボリュートラミナを含む地層「唐戸層」は、比較的柔らかく崩れやすい地層で、何度か崩壊を繰り返しています。
写真は令和6年11月17日現在の様子です。
6月に崩落していた木の根を11月5日に片付け、整備しました。
令和6年7月11日の様子
前月6月22日に、崖の上にあった松の根が崩落しました。
令和4年7月23日の様子
令和4年2月10日の様子
令和3年10月18日の様子
崩壊した土砂を除去して整備しました。
令和3年9月18日の様子
前日に台風が通過し、崩壊が見られました。
令和3年8月18日の様子
令和2年5月30日の様子
令和元年10月29日の様子
土砂を取り除き整備しました。大きなブロックをいくつか端に残し、近くで触って観察できるようにしました。
令和元年7月23日の様子
大規模に崩落しました。
令和元年7月21日の様子
柵が完成し、安全に観察できるようになりました。
令和元年6月12日の様子
柵を作るためのトレンチを掘っています。トレンチ内には砂浜の堆積物が見られました。昔はここが砂浜だったことがわかります。
平成31(令和元)年2月25日の様子
崩落の危険があるため、土嚢を設置しています。
平成30年9月26日の様子
崖にかかる荷重を減らすため、崖の上部にあった松を伐採しました。
平成30年9月14日の様子
崖に亀裂が入って不安定な状態になり、一部は崩落しました。
平成30年3月27日の様子
平成29年9月18日の様子
土砂を取り除き、崖の下部にあった空洞を埋め、表面の植生を取り除いて整備しました。
平成29年7月6日の様子
崖の中央部に小規模な崩落が見られました。
平成28年6月5日の様子
平成27年9月6日の様子
平成26年4月22日の様子
平成21年8月14日の様子
満潮の時に海面に現れる2つの岩場は、火山から噴き出した溶岩や、噴出物がたまった火砕岩などからできています。浮洲火山の溶岩は、城山溶岩とよく似た白っぽい流紋岩です。
遠浅の地形のため、干潮の時には、鳥居のある岩場は陸地とつながり、現れた磯の潮だまりには、魚類、貝類、甲殻類など海の生き物が多くみられ、それらをえさとする鳥類も多く集まります。
目の前に広がる浅瀬は、海藻類、魚類、貝類、甲殻類などさまざまな海の生き物が生息する生物の宝庫です。
この一帯は、瀬戸内海の生き物の産卵や稚魚の成育の場となり、生物多様性を支える重要な環境です。
瀬戸内海は、日本でも干満差の大きい場所として知られており、周防灘では、最大で約3.5mの干満差があり、強い潮流を生じます。
海に出っ張っている浮洲火山の溶岩は、広い浅瀬を強い潮の流れによる浸食作用から守っています。
干潮時には、鳥居のある岩場は陸地とつながります。
沖合の小さな洲に漁業の神様、高倍(たかべ)様を祀っており、高倍様と鳥居は高潮や大しけの時でも決して海水につかることがないといういわれから、 浮洲といわれています。
アサギマダラは、春と秋に、海を渡る1,000~2,000kmもの旅をすることが知られています。
アサギマダラの生態や移動経路については、まだ解明されていないことが多く、羽に場所や日付などを記録するマーキングによる調査が行われています。過去には姫島から飛び立ったアサギマダラが、春は北海道まで、秋は台湾まで移動した記録もあります。
姫島はアサギマダラの旅のルートの途中にあり、5月から6月頃、南の地から飛来し、姫島北部の「みつけ海岸」で、スナビキソウに集まり休息した後、涼しい北の地に向かって飛び立ちます。秋は10月から11月頃、世代を交代したチョウが北の地から飛来し、姫島中央の山間部のフジバカマの花に集まり休息した後、暖かい南の地へ飛び立ちます。
砂浜などの海岸線に生育する「スナビキソウ」は、北海道~九州北部の、日本海沿岸を中心に分布する植物で、九州南部以南にはほとんど分布しないことから、姫島のスナビキソウ群落は、春に北上途中のアサギマダラにとって重要な中継地点となっています。花や枯れた茎など、アサギマダラの好む物質が含まれる部分に、アサギマダラが集まる様子が見られます。
スナビキソウの種子は水に浮き、海の流れに乗って運ばれて分布を広げ、地下茎で周辺に生息範囲を広げていきます。姫島のスナビキソウは、瀬戸内海の潮流に運ばれて「みつけ海岸」にたどり着き、自生したものを守り、管理しています。
海水による崖の浸食作用には2種類あります。波が直接打ち付けて削り取っていく浸食作用と、崖面にしみ込んだ海水が乾く際に塩の結晶ができることを繰り返すことで崩れやすくなっていく、とくに日当たりのよい南向きの崖面で生じやすい浸食作用です。崖の下の部分は干潮時と満潮時の間で2種類の浸食作用が同時に進みやすく、不安定になった上部が時々崩落することで「海食崖」が作られます。
「鷹の巣」は、「ひめしまブルーライン」が整備される以前に形成された「海食崖」です。海から眺めると、矢筈岳の斜面を切り取ったような崖の地形がよくわかります。
姫島を一周するジオクルーズで見ることができます。
崖の上部にボコボコと穴のあいたような地形「タフォニ」があります。タフォニの成因は、海水飛沫を取り込んだ岩石が乾燥することにより塩類を析出する際に、発生する結晶圧が岩石を破壊する「塩類風化作用」と考えられています。
「鷹の巣」にみられる地層は、約100万年前に堆積したもので、150~110万年前に噴火した国東半島の火山岩の礫を多く含んでいます。当時、国東半島との間は海ではなく、湖や河川などがある陸続きの環境でした。30万年前以降に活動した姫島の火山のマグマが下から上がってきた時、堆積した地層が高く持ち上げられました。
「鷹の巣」という地名は、古くからこの崖で鷹が営巣することに由来しており、現在も、毎年春に、猛禽類のハヤブサ(絶滅危惧Ⅱ類)が、崖の表面のくぼみを利用して営巣しています。
目の前の崖面に露出する地層は、右肩上がりに大きく傾斜しています。もともと水平だった地層が、地殻変動等の大きな力が加わったために曲げられた(褶曲した)と考えられています。左側に、大海のコンボリュートラミナの地層の連続部がみられます。また、小断層で地層がずれている様子が見られます。
まっすぐの地層に力が加わると、地層が変形し、褶曲ができます。
姫島の地層には、多くの褶曲や断層がみられます。もともと水平に堆積していた地層が、後の火山活動等によって力を受け、変形する際にできた構造であると考えられます。
拍子水は、水温約25℃の炭酸水素塩冷鉱泉で、二酸化炭素を多く含むことが特徴です。地下の空間(岩石の割れ目など)に、過去の火山活動でマグマから放出された二酸化炭素が溜まっており、少しずつ地表に出てきて、地下水(雨水が地下に浸透した水)と出会って湧出していると考えられます。
拍子水は、海岸の近くですが海水の成分は全く含まれていません。鉄分を含むので、湧き出している周辺には鉄の沈殿物がみられます。
拍子水は、昔から皮膚病などによく効くことが知られており、遠くから湯治に通う人もいました。昔は拍子水の横にあった五右衛門風呂を各自で沸かして入っていました。
現在では、「拍子水温泉」で、源泉に温水を加えた温泉(約41℃)と源泉(約25℃)の入浴を楽しめます。
お姫様が、おはぐろをつけた後に口をすすごうとしたが水がなく、手拍子を打ち祈ったところ、水が湧き出したといういわれからこの名があります。
金(かね)火山の溶岩は、デイサイトという岩石(流紋岩と安山岩の中間の組成を持つ)でできており、粘り気の強いマグマがドーム型の形状で固まったものです。金火山には、溶岩ドームなどによって作られた山が5つあります。はっきりとした縞模様があることと、普通角閃石の結晶を含むことが特徴です。
縞模様は、流紋岩に多く見られる流理構造と呼ばれるもので、マグマが流動するときに引き伸ばされてできると考えられています。
金溶岩は、杵築の「勘定場の坂」の石畳などにも使われています。
「金」という名称は、このあたりの集落の名前「金地区」から付けられています。「かね」は「おはぐろ」を意味する言葉で、もともとは「金」ではなく「鉄漿」という漢字が使われていました。
金地区には、お姫様の「おはぐろ」にまつわる伝説が残されており、水も豊富であることから、古くから人々が生活していたと考えられます。
比売語曽社周辺の山の斜面上に、スダジイ自然林がみられ、村の天然記念物に指定されています。
スダジイは、海岸沿いに生育することが知られていますが、島内の他の場所に見られないことや、瀬戸内海周辺は、氷期には内陸部であったことなどから、この場所のスダジイ自然林の成り立ちについてはまだ不明な点が多く残されています。
古庄家(こしょうけ)の屋敷(屋号「玉島屋」)は、第11代当主である古庄逸翁(古庄小右衛門重敏)が天保11年に着工、天保13(1842)年に完成したもので、敷地面積は約550坪、一部2階建ての寄棟造りで建坪は約129坪あります。
屋根は、現在はすべて瓦葺きですが、かつては屋根の一部は麦藁を葺いた「ムギカラ屋根」であったと考えられています。日本庭園、「お成りの間」等、格式を伝える貴重な建物で、平成2年に村の有形文化財に指定されています。
敷地内に、明治37年に開局した旧郵便局舎も残されています。
古庄家は、江戸時代を通して姫島の庄屋を務めた家で、塩田の造成、サツマイモ栽培の導入、「沖の波止」の築造など、島民の生活を豊かにする善政を行いました。
幕末には、当時の庄屋古庄虎二が長州藩と杵築藩の調停に活躍し、1864年の下関戦争の際には、後の初代内閣総理大臣となる伊藤博文や、外務大臣となる井上馨など、歴史上有名な人物が来島し、古庄家を訪れています。
初代 古庄徳右衛門(重基) | 1615年 里正となる |
7代 古庄 拙翁(せつおう) | 1750年 入浜式塩田を開く 1750年代 甘藷(サツマイモ)を導入 |
11代 古庄 逸翁(いつおう) | 1841年 「沖の波止」をつくる 1842年 古庄家住宅の完成 1850年 大風水害・疫病の救済 1850年代 塩田の増改築 |
12代 古庄 虎二(とらじ) (江戸~明治時代にかけて最後の庄屋) | 1864年 下関戦争(伊藤博文、井上馨、勝海舟が来島) 1866年 姫島にあった幕府の石炭貯蔵庫の火災 1866~1867年 木野村亀太郎による御座船の製作 |
7代目の庄屋古庄拙翁は、当時窮乏していた姫島の島民を救済するため、瀬戸内海の干満差を利用した入浜式の塩田を開き、痩地でも育つ甘藷を導入しました。拙翁の功績は、後に塩田跡地を利用して始められた車えび養殖や、サツマイモを使った郷土料理など、現在の姫島の暮らしに引き継がれています。
11代目の庄屋古庄逸翁は、漁港のなかった姫島に港を築いて漁業を振興させ、塩田を拡張して飢饉の姫島を救いました。また、学校を創立して教育に力を注ぎました。逸翁の築いた港「沖の波止」は、姫島の漁業を安定させるとともに、やがて瀬戸内海航路を利用する船舶が立ち寄るようになり、瀬戸内海航路に開けた島として姫島が発展していくきっかけとなりました。
12代目の庄屋古庄虎二は、幕末の動乱の中で、海上交通の要所であった姫島へ寄港する幕府、長州藩、杵築藩、外国船などに臨機応変に対応し、天才的な外交手腕を発揮して戦火の危機から人々を救いました。
古庄家の家紋は「杏葉(きょうよう)」です。瓦に使われています。
幕末の文久3年(1863年)5月に、長州藩(山口県)は関門海峡を通過する外国船を相次いで砲撃しました。
翌年の 元治元年(1864年)8月、 イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊の軍艦17隻が、その報復のために姫島西浦沖に集結しました。
この時に観音崎で撮影された古写真には、斗尺岩の奥に、複数の外国船が停泊している様子が写っています。
この写真が撮影された後、連合艦隊は下関に向かい、関門海峡で砲台を攻撃しました。砲撃の音は姫島まで聞こえたといいます。
この砲撃の数週間前、イギリスに留学中であった伊藤博文(後の総理大臣)、井上馨(後の外務大臣)が、調停のために急きょ帰国し、姫島を訪れています。また、砲撃の数日後には、その状況を聞き取るため、幕府の軍艦順道丸とともに、当時軍艦奉行であった勝海舟が姫島を訪れています。
古写真に写っている外国船を見ると、帆船であることがわかります。この時代の船は、蒸気機関も併用しましたが、主として風の力を利用する帆船です。
関門海峡は、狭く、激しい潮流の変化があり、通航する船が多く、海上交通の難所です。帆船の時代には、風や潮の流れを読み、タイミングを合わせて安全に航行する必要がありました。
姫島は、関門海峡に向かう船にとっては必ず通過する交通の要所です。このため、江戸時代には姫島に北前船をはじめとする多くの船が立ち寄りました。
下関戦争の際、関門海峡に向かおうとする連合艦隊にとって、姫島は集結しやすい場所であったといえます。
下関戦争の翌年、慶応元年(1865年)には、幕府が第二次長州征伐のため、姫島に石炭の貯蔵庫を作り、軍艦が石炭の搭載に立ち寄っていました。慶応2年(1866年)、この貯炭庫で火災が発生し、石炭を貯蔵していた五棟の倉庫が、四か月もの間燃え続けました。貯炭庫に火をつけたのは、長州藩の奇兵隊であったといわれています。
このときの石炭の燃えがらは、現在、姫島庄屋古庄家で見ることができます。
当時の姫島の庄屋、古庄虎二は、幕末の動乱の中で、海上交通の要所であった姫島へ寄港する幕府や長州藩、杵築藩、外国の船などに臨機応変に対応し、天才的な外交手腕を発揮して戦火の危機から人々を救いました。