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姫島の大地の成り立ち

姫島の大地は、約200万年前以降に形成された地質や地形からできています。

約200万年前頃は、まだ瀬戸内海はなく、九州、中国、四国はつながった陸地でした。 現在姫島が位置する周辺は湖や河川のある内陸で、メタセコイアの森が広がり、湖畔では水を飲みにきたアケボノゾウやシカの姿もみられました。 南方では火山が噴火し、頻繁に火山灰が降り、湖には軽石が流れてきました。大きな噴火が起きた際には、 火砕流が発生して、木々が埋積されることもありました

約150万〜110万年前には国東半島で火山活動が起こり、現在姫島が位置する周辺には、土石流や川の流れによってたくさんの火山岩や土砂が運ばれてきました。

約130万年前には、豊後水道が沈降して九州と四国の間に海水が流入しはじめます。約78万年前、現在姫島が位置する周辺まで海が侵入してきました。 その後、海水準変動により、現在まで淡水と海水の環境を繰り返してきました。

 

約30万年前以降、姫島の火山が活動をはじめました。姫島の火山は、それぞれ異なる時期に活動した7つの火山で、 地下から上昇してきたマグマが大地を押し上げ、火口や溶岩ドームを形成し、現在姫島が位置する場所に4つの高まりができました。

 

約2万年前の最終氷期の後、温暖化に伴い瀬戸内海に海水が流入し、4つの高まりは海に浮かぶ島となりました。 潮汐の影響を受けるようになり、潮の流れで4つの島の間に砂や礫からなる砂州が堆積しました。

縄文時代前期(約6000年前)には、海水準が現在よりも数メートル高く、この時期に現在みられる海食地形や砂州などが作られました。 その後、海水準が下がると、4つの島をつなぐ砂州部分が陸化して一つの島となり、現在の姫島が形作られました。

 
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ジオパークのテーマ

火山が生み出した神秘の島

おおいた姫島ジオパークのテーマは、「火山が生み出した神秘の島」です。

 日本列島は、環太平洋火山帯に位置し、火山列島とも称されます。

 大分県は、その火山列島の中でも火山の影響と、付加体構造の両面性を持つ、日本列島の縮図といえます。

  温泉で有名な大分県は、現在も火山活動や、地熱の恩恵を一身に受ける「大地の恵み」を受けていますが、火山活動によって生まれた姫島は、まさに大分県を象徴する島といえます。

 火山活動等の地球活動が、大地を形成し、産出される大地のカケラが人類を生み、大地の鼓動が人々の暮らしを支えたことで歴史が紡がれてきました。

 姫島の黒曜石は、まさに脈打つ大地の鼓動が生みだし、人々は、黒曜石を加工しながら時間を重ね、西日本各地に展開するさまざまな遺跡で発掘される姫島の黒曜石は、人々の生活、文化を育んできました。

  火山活動が生み出した島で繰り広げられてきた人と自然のドラマが、現在の姫島と、今を生きる人々につながってきたのです。

 火山活動が生み出した島では、産業構造変化として黒曜石に始まる石器の素材採取から中近世では製塩、畜産につながり、現在は沿岸漁業、養殖産業に展開します。

 つまり、姫島の風景は、旧石器・縄文時代から始まる人々のくらしによって変化してきたのです。現在では、瀬戸内海国立公園に編入され、瀬戸内海の一番西側に位置することとなった姫島では、火山活動から約30万年後の「人」と「自然」と「時間」を体感できる大パノラマが広がっています。

 火山活動の痕跡をはじめとする自然と、それらによって育まれてきた、地域の歴史と文化は、過去、現在から未来に生きる地域の人々に、様々な大地の恵みを与えてくれているのです
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自然環境と人との関わり

姫島の黒曜石産地(国指定天然記念物)

 旧石器、縄文時代以降、西日本一帯に分布する遺跡から発掘される石器の材料としての黒曜石は、古代より人々の生活の道具としてだけではなく、貴重な交流アイテムとしての役割も担ってきました。

 姫島村史によると、黒曜石を加工するための遺跡の存在を示唆していますが、姫島の黒曜石を島以外の地域に持ち出し、加工してきたとする説もあり、深い人との関わりあいを示す重要な火成岩の一つであるということがいえます。 

 黒曜石は、石器時代から人の「食」に非常に縁の深い火成岩で、その産出状況の特異性からも注目されてきました。

  崖に露天の黒曜石を確認できるのは、北海道の十勝と姫島の二ヶ所だけであること、乳白色を呈する灰色黒曜石であることが、姫島の黒曜石産地の大きな特徴と言えます。

 これらの歴史性や、現在も残る観音崎火口跡の自然科学的重要性などから、平成19年国の天然記念物に指定されました。
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塩田

 姫島の塩田が歴史に登場するのは、慶長年間です。その後昭和34年に廃止されるまでの間、営まれてきました。

 姫島の塩田は、明治中期まで「下流」でした。  これは、三田尻方面から導入した流儀であるという説があります。

 明治40年、香川県から彦江喜三太、森井六次郎が移住してきてから、「讃岐流」になったと伝えられています。

 大正14年に、地主と労働者の間に紛争が起こり、以後、地主が自家経営を止め、金銭請負の小作制度となりました。

 塩田の経営形態は、新塩田、旧塩田で分かれていたそうだが、共同体としての信仰、祭事があったといわれています。

 旧暦の6月16日は「塩釜祭り」で、御神体は塩土老翁(しおつちのおじ)で、伊邪那岐命、伊邪那美命の御子で、最初に塩を焼いて民に製塩を教えた神様とされています。

 現在は、大帯八幡社の境内社のうち東端に祭られています。
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車えび

 姫島の車えび養殖産業のはじまりは、慶長年間から続いた前述の塩田廃止後のことです。

 主要産業であった塩田が廃止となり、広獏とした廃塩田が残ったことから、この廃塩田に着目し、車えび、ガザミ(ワタリガニ)の蓄養殖を目的として、姫島養魚株式会社の設立を起源として、車えびの養殖が始まりました。

 ガザミは、計画のみで実際の取り組みはなされていなかったと記録されています。

 さまざまな取り組みがなされましたが、成果に結びつかず昭和38年に解散しました。

 その後、瀬戸内海水産開発株式会社姫島養殖場となりましたが、陽の目を見ず昭和40年に幕を閉じました。

 結果、姫島村が、姫島養殖場の資産を譲り受け、新会社設立に踏み切り、現在の姫島村の主要産業となった車えびの成功につながったのです。

 昭和40年6月7日に姫島車えび養殖株式会社が設立されましたが、当初から成功を収めたわけではなく、さまざまな苦労を重ねることとなっていたことが記録されています。

 事態が好転したのは昭和51年のことで、干拓沖に設置された酸欠対策の水中ポンプによる常時注水が可能になったこと、養殖場内に入る雑魚の侵入防止対策を講じたことで養殖における課題の解決につながったと記録されています。

 砂地を活用した塩田は、4つの島をつなぐ砂州が産業の発展に大きく影響していると考えられています。

 塩田からの産業の変化は、姫島に大きな主要産業を生み出し、姫島の形成を知るために必要な島の地質的な情報を今に伝える契機ともなりました。

 地学的な調査・研究フィールドとして活用され始めた要因として、現在整備されている島内を巡る道路は、漁業関係道路として整備されていますが、これらによって、海食作用による断崖を道路から見ることができるようになったのです。

 これは、サイト(地質的特徴のある場所・見どころ)が海に沈むことがなくなったことによる観察地の確保につながったことがあげられます。

 瀬戸内海誕生の研究、火山活動の研究でも重要な資料的価値を有する姫島を見ることができるようになったことが、島のジオパークの取組みの一つとなっています。
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甘藷

 姫島においては、農業として触れられるものは、記録上畑作中心の島では定着しているものはありませんでした。

 四面海に囲まれた姫島では、漁業が主で農業が従だったことが村史に記録されています。

 その中で、姫島では、宝暦年間に甘藷導入とされている記載があります。

 甘藷は畑作であり、災害に強くせまい瘠地でも育つことから200年の歴史を持つ農業文化となりました。

 甘藷で有名な場所では、鹿児島県の火山灰台地などがあげられますが、同様に、江戸時代以降飢饉を乗り越えるために重要な位置づけであった作物であったと考えられます。

 火山でできた島である姫島だからこそ、甘藷文化が定着したのではと推察される。

 なお、伝統料理として、「かんころ」、「芋切り」などがあげられます。

 姫島では、めでたい席などでふるまわれる「鯛めん」がありますが、「対面」を表現したもので、麺は、うどんで、材料となる小麦等は島では相当量収穫できないため、高級品であったと推察されます。

 こういった農業情勢の中、自給自足する際、甘藷を利用した料理方法が多様化したことはまさに地域の特異性を示す材料となると考えられます。

姫島ひじき

 姫島ひじきは、5月の大潮の2回の収穫(春の収穫)と12月の(3日のみ)(冬の収穫)の2季のみ収穫を行っているもので、姫島の季節を感じることができる風物詩となっています。
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